高校時代から将来見据え、生産管理を学ぶ
|
安達課長の子供のころは自宅に隣接する工場周辺が遊び場だった。言い替えればプレス機械の加工音を聞きながら育ったといえる。プレス機械に加えて板金加工機械が工場で稼働するようになり、会社が年をおって成長する経緯もつぶさに見てきた。工場経営に心血を注ぐ父親(安達秀男社長)の背中は大きく、安達課長にとって頼もしくかけがえのないものであったに違いない。水が大地にしみ込むように、父親のようになりたいという意識は自然と安達課長の全身を満たしていくことになる。高校生のときにはすでに自らの進路をしっかり見据えていた。大学進学も安秀工業入社を前提としてのものであった。
「大学では経営工学を専攻し、生産管理・品質管理を学びました。会社のこれからを考えたとき、エンジニアになるよりも経営的な視点で学んだほうがいいと思ったのです。」
創業以来、順調に成長を続け、社員数も増えていった。社長が何から何まで見るのではなく、今後は組織をつくり、管理していく体制が求められるようになる。マネジメントが重要なポイントになると考えたためだ。
大学卒業後は安秀工業に直接入社するのではなく、まず取引先であった大手企業に就職し、ここで生産管理に具体的に携わることになる。
「規模は違いましたが、生産管理をはじめ会社組織のあり方や動きなどを学ぶことができたのは大きな収穫でした。」
1年半の勤務を経て、満を持しての安秀工業入社となる。安達課長25歳、1995(平成7)年のことだった。 |
JMC受講で仲間から刺激受け、さらに守備範囲の幅を広げる
|
入社まで、安達課長が歩んだ道筋にはまったくぶれがない。それだけに入社直後から大車輪の活躍となった。大手OA機器メーカーへの納入担当となり、営業折衝から、検品までを担当する。
「ちょうどある部品の量産品立上げの時期と重なり、昼は営業対応と現場手配、夜は3次元測定機によるデータ採りと昼夜を問わない仕事が続き、この頃は月間の残業が200時間を超えていました。しかし大変だという感覚はまったくありませんでしたね。自分の場を見つけたという気持ちが強かったことをおぼえています。」
社長の息子という存在には周囲がいろいろな点で注視し期待するものである。彼らはそれに一つひとつ応えながら自分の場を広げなければならないが、安達課長は見事にその期待に応える。顧客との厚い信頼関係を築き、社内では生産管理まで仕事を広めてなくてはならない存在となっていくのである。そのような時期にJMC受講の話が持ち上がることになる。入社3年目のことであった。
「JMCは前後期合わせて20日以上に及びますが、最初話を聞いたとき、それだけの期間自分が抜けて大丈夫なのかと思いました」と安達課長は当時を思い起こす。不可欠の戦力になっていたことがわかる。しかし、会社をよりよくしたい、そのために安達課長のさらなる成長をのぞむ安達社長に背中を押されるかたちでJMCの門をくぐることになった。受講後すでに6年が経過したが、印象として心に深く刻まれているのはやはり同期生との交流だ。
「午前3時頃まで話が弾むのです。話が楽しいから先に寝たくない。次の日もまた昨日の続きで盛り上がるから寝られない。睡眠不足が続きました」と懐かしそうに語る。
JMCには同じ環境に身を置く人々が集まっている。それゆえに悩みも共有できる。この悩みを真剣に語りあうことなどは社内で決して得られないものだ。仲間意識が生まれお互いに刺激を与え合う。自分にないものを仲間に見つけ、向上心の糧となった。
「1人とても元気のある人がいて、ゲームなどでも自然とリーダーになるのですが、一生懸命にまとめようとする姿勢に好感が持てる。リーダーには元気さと一生懸命さが必要だということを実感したものです。」
もちろん仲間との語らいだけがJMCではない。講師の話からも大きな影響を受け、新たな行動につながったという。「『目的を明確化して手段を選べ』という講師の言葉が受講後の仕事の取り組みに役立っています。とかく目先の納期などに振り回されがちですが、現在では長い視野に立って、もっと広く物事を見ていこうと心掛けるようになっています。」
財務関係の講義も参考になった。
「決算書の見方が主体でしたが、ただモノをつくるだけではなく数字も理解しなければという意識づけができたことは大きなJMC効果と考えています。会社に戻ってからは決算書を見せてもらい、決算時に社長と同席して税理士の説明を受けています。与えられた職制を超えて経営への参画意識を持たなければならないということに気づかされたのがJMCでした。」
経営参画への意識が具体的に芽生えたJMC受講は、安達課長にとってかけがえのないものになっていることがわかる。 |
4兄弟力を合わせて会社を牽引
|
安秀工業がスタートしたのは1973(昭和48)年。安達社長の創業による。建設用部材のプレス加工からスタートし、その後板金加工も取り入れて試作から量産まで幅広い対応を実現、現在ではOA・FA機器部品をメインに生産業務を展開する。
技術の高度化にともない業績も順調に伸びており、1983(昭和58)年真壁工場、1992(平成4)年会津工場、そして2003(平成15)年には中国工場を無錫に開設し、本社工場と合わせ4工場体制をとる。中国工場の開設で新規の引き合いも出てきており、中国市場の可能性を強く感じはじめているという。取材当日も安達社長は中国に出張中であった。
安達課長には、全員が安秀工業に勤務する3人の弟がいる。現在は4兄弟がそれぞれ各部門に分かれて安達社長をサポートする。気心の知れた4兄弟が力を合わせ、工場の生産を牽引していく態勢をとる。
「徹夜の仕事でも皆快く引き受けてくれる。スタッフ、ブレーンとして最強の味方です。」と兄弟ならではの強みを語る。
それでは安達課長は安秀工業の将来像をどのように描いているのだろうか。
「規模だけを追求していくつもりはありません。規模ではなく中身で勝負できる会社にしていきたいものです。つくるだけではなく『創る』ことにこだわり、常にチャレンジ精神で、技術力で生き残る企業でありたいと考えています。」
安達課長が描く将来のビジョンは明確である。 |